新しき心のスケッチ 2020-06-06

佐々木大記の日常

人生に対する立ち止まり現象を通過中の昨今、15年ほど前に愛読するようになってここ数年は久しく目を通していなかった作家の本を改めて再読し、はまっています。
自分自身の認識力というか、読解力がこの十数年で上がった結果、再読であるにもかかわらず初めて読むのと変わらないほどに同じ本を楽しめていて、まさに「二度おいしい」っていう状態を楽しめています。
僕は気に入ったものは人に勧めてしまう癖があるためその作家の本の中でも気に入っているものは友人に貸したままになっていて、今更返してくれと言うのもなんだか気が引けるほど年数が経ってしまっているため、アマゾンで古本を仕入れて再読したりしていました。読まなくなっていた時期に新たに出版されていたものも併せて購入してその作家の世界にどっぷりと浸かっているところなのですが、中には絶版になって文庫化されているものや、文庫化すらされず希少本になって低下の5倍くらいの値で出回っているものもあったりして、本に対する価値感を考え直すに至りました。
気軽に貸しっぱなしにしてしまっていたものも取り戻すべく友人に連絡を取り、郵送してもらうことにしたのですが、すこし怖いのはその友人には幸福の科学の本をたくさん渡しているのでそれも含めて全部戻ってきてしまうのではないかという恐れです。一応「これとこれとこれが欲しい」というふうに指定してはおいたのですが、断捨離思考的には「じゃあこれもこれもこれも」とこれ幸いにと処分したがるのではないかと懸念しています。三つの本棚がすでにパンパンになってる我が家の収納事情としてはむやみに本が増えていくのはあまり喜ばしいことではないため、どんな形でブツが送られてくるかハラハラドキドキしながら待っています。
とはいえ遅かれ早かれいずれ本の収納容量の拡大は必ず必要となるため、電子化も含めて検討しようか考え中ではあります。


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優しさ

目的がなくなると何で自分が存在しているのか分からなくなる。
だから人間は欲に意識を向けるものなのかもしれない。
成功や勝利や評価も欲さず、与えることによる満足感も求めない中で、肉体的欲求すらも手放した場合、自分の利益不利益があまり考慮されなくなる。
成功とか評価とかの価値そのものが無いわけで、それらはどうでも良いものとして扱われるので、「ご自由にどうぞ」の心境が現れる。
これは優しさではなく虚無感からくる放棄なのだが、実は虚無感こそ本当の優しさの正体なのかもしれない。
無常を知らない人間だから、己の欲にとらわれて、我が利を手放すことができずにいるのだ。
だとしたら私は今優しいのだろうか。
消極的にはきっと優しいのだろう。
今何もいらない感じになってはいるのだが、自分の意志だけは手放していない。
自分の意志と言ってもそれも様々な物事の影響の上に成り立っているので、完全独立したものではあり得ないのだが、意思決定を観念的なパターンに委ねたり、何らかのイデオロギーに任せきりにするというようなことは、以前より慎んでいる。
つまりは自分の意志には価値を認めているということか。
これに執着して譲らないでいるならば、やはり私は自分中心であり優しいわけではないのかもしれない。

からっぽ

最近本ばかり読んでいる。

もともとテレビのない部屋なのでテレビは見ない。
さらにネットもこの頃はあまり見てない。
世界がとても窮屈に感じられるので、世界にあまり関りを持ちたくないと思っている。
いろんな人の主張がとても虚しいものに思えて関心がなくなった。
強く主張できた人が世の中を牛耳る権利を手にできるこの世界は僕には向いていないと思う。
歳を取ったせいなのか、欲求も願望もなく、目的も見当たらないので、仕方なく酒を飲んでみたりしながらその日を生き、朝は起きるよりも夢を見ていた方が充実しているような気がするのでゆっくりと眠るようになった。
自分の意見や主張も今ではとても空虚なものに思える。
何かを頑張って意義深い人生を生きているような気分に浸って心の隙間を埋めていただけだったんじゃないかと感じている。
夏の間にまた一人でぷらぷらと旅に出たいなと思っている。
今はまるで空っぽで、生きる意味もよく分からなくなりつつあるけれど、空っぽになってリセットできるのかもしれない。

脱皮したぜ

自分は世の中から少しずれたコースを歩いている人間だと自覚している。
地球人に紛れて地球文化を観察している宇宙人なのではないかというくらい社会になんでいない。
なじんでいないのだけど、なんか違うんだろうなということを自覚しつつ地球人たちが過ごしている世界を眺めている。
そんな感じ。


この異質性も何かの役に立つかもしれないので、「心のスケッチ」というブログを二年半くらいやってきたのだけど、記事がたくさん積みあがった結果醸成されてきた雰囲気がこの頃どうもしっくりこない。この二年半の間に積みあがったものが抜け殻のように感じられるのだ。
宗教的な考えや社会についての考えだとかがたくさん書かれているのだが、見ていてもどうも疲れる。
そういうことを真剣に熟考していたのだから別にそれで良いんだけど、今はもうそういうモードではない。


宗教生活(私は幸福の科学の信仰者である)を営んでいると、必然的に自己変革をしてしまうため、考え方やものの見方がどんどん変化していく。
「自分とはこういう人間なんだ」と思っていても、脱皮することで「ごめん全然違ってたわ」ということに気づかされるその繰り返しが人生だと思っているのだが、そのテンポがとても速く、ほんの数か月前に自分が考えていたことがずいぶん昔のことのように思えたりする。
ここ最近も大きな殻がスポンと抜けたようなので、この際抜け殻は抜け殻として切り離してゼロからやり直してみようじゃないかと思い、新しいブログに変更してみた。



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これからも宗教だとか、世の中のことだとかも普通に書くだろうけど、なんとなく気分が違っているので「新しい」で良いのだと思う。
なにがどう違ってくるのかは正直自分でもよく分からないのだが、「あぁ。こういうことだったのね。」とあとから見えてくるものがあるのだと思う。
意外と大きな変化なんじゃないかと期待している。